wakatonoの戯れメモ

はてなダイアリーから引っ越してきました。

博士の学位を取得する意味と、取得までのプロセス概要(理工系分野を中心として)

時期的に、卒論/修論/博論のラストスパートで死にそうな方々が多い頃だと思いますが、今から目の前に差し迫る締切までに、「ゼロからそういうものを書き上げる」のは多分不可能、と思う私が、「博士の学位を取得するにはどうする?」を、ざっと書いてみました。

言う以上、私自身は博士の学位を取得していますし、よかったことダメだったことを振り返って、以下にまとめています。

博士の学位を取得する意味と、おおまかな取得条件

博士号を取得できる=「独力で研究テーマを決定し、結論を出す能力を有する」ことを認められることかなと考えてます。これは、学術研究を行う者としては必要な能力であり、自称研究者か、きちんとした研究者かを見分けるための指標の1つ*1とも考えています。

落ちこぼれ寸前で博士号を取得した者(5年かかったw)が言えることは…以下を客観的かつ論理の飛躍を起こすことなく説明出来ることが最低条件、ということですかね。具体的に何がどんだけ必要か*2は、大学や専攻によって異なるので、そちらを確認のこと。

  1. 現状や世の中的な課題を俯瞰し、さらにその中から自分が取り組むテーマの無理のない切り出し
  2. 取り組む事項や意義
  3. 取り組むプロセスや結果、吟味の過程
  4. 最終的な結論や残課題
ちなみに上で「論理の飛躍」と書いてますが、これはたいそうなことを書いてるわけではなく、通常の議論でよく見られる「このくらい分からないのか」「勉強すればわかる」「~は自明である」というような表現の多用や、「説明もないのに唐突に『これまで説明してきたように』というような書き出しで始まるまとめ」を極力排し、自分で説明するまでもなく他の文献で説明されていることは、「参考文献を提示」することで説明に替え、簡潔かつ過不足ない議論を展開することと理解しています。
考え方や議論に多様性を認めるのは大事です。しかし自身が主張する結論、それも工学的な意味を持たせたいものに対し、結論を多様に解釈されても困ります。なので、「多様な解釈を与えるスキを作らない」のがポイントであり、最終的な結論に行くまでに、多様な解釈を行う余地を、合理的かつ客観的に確かと判断できる「理由や根拠で削って」いき、本当に「自分が論じたいこと」に持っていく必要があるわけです。

博士号取得までのプロセス概要

個人的にやってきたかな、と思うことは…以下のような感じですかね。
  1. 現状や世の中的な課題を俯瞰して切り出す過程は、自身できっちり悩み、客観的に表現することに加え、指導教官様や研究室のゼミ等を通じて磨き上げることを意識しましょう。ある意味博士研究の大前提とも言えます。
  2. 取り組む事項や意義を、他者に説明して理解してもらえるかどうか?を確認するのが研究会報告の意義かと思います。なので、こうしてこうしてこうなった、という話を自由に出せる(=査読がない)のは大事です。
  3. 取り組むプロセスや結果、吟味の過程あたりを切り出して、正しく説明出来ているかどうかを検証してもらうのが、査読論文の意義です。これは正しさを評価していただき、よければ採録(ほとんどないw)、内容に飛躍や疑義があったら条件付き採録もしくは不採録
  4. 0~2を積み上げて、最終的に何を見出したかを客観的に論ずる。(0)~(2)までをくまなくやっていれば、何を論ずるかは見えてくるはずです。

具体的にどうすればプロセス実践できるか?

具体的にどうやったら上記のプロセスを実践出来るか?は、教えたくても教えられません。体得するしか無い(あくまで個人の意見です)。
これは、「教えられても聞いた側は理解できない」からであり、「身を以て理解する時は一瞬」だからです。自分自身の経験と、他の方から伺った話を総合したら、こういう表現にしかならないよなぁ…という限界も感じてます。
これを「上から目線」とか「取った立場だから言える」というように言われたとしても、言われた側は困ってしまいます。単に「取った立場」から、これまでの行動を整理したらこうだった、と言ってるだけで、そこに立場の上下なんてないですし、仮に博士号を取れてない人から「こうすれば取れる」と根拠レスに言われても、それ何の裏付けもないですし無責任です。

やっちゃいけないこと

これまた難しいんですが、一番やっちゃいけないことは「論理の飛躍」を容認することだと考えてます。これは、自分の研究でも他者の研究でもあてはまりますし、偉大な研究者と称される方でもやってはならないことです。
例えば、Prof. Andrew John Wiles は、Fermat's Last Theoremを証明した人物として知られており、それ以前も数論の研究者として業績を積み重ねていますが、Fermat's Last Theoremの証明に係る論文の査読で、一度は致命的なギャップを指摘され、そのギャップを認めた上で、ギャップ解消を実現されました。この「ギャップ」こそが前述の「論理の飛躍」であり、これを認めてしまうと、荒唐無稽な説だろうとなんであろうと、全部「正しい」と言い切ることすら可能になります。
また、論理の飛躍を解消するために、飛躍した部分を「偽造」「改ざん」した結果で埋めるのは、最悪です。正しい結果で論理の飛躍を解消するのは当然よいのですが、そのために「偽造」「改ざん」した結果をひねり出すのは、当然ですがアカンことです。

やっちゃいけないことの例

本当はここで「自明だろう」と書きたいのですが、自分がすでに「それはアカン」と書いてしまってるので、1つだけ例示します。STAP細胞に係る一連の論文なんかが、私が今思い浮かぶ典型例だったりします。

STAP細胞が実在するしないの話はさておき(する派が相応にいると考えているため)、実在することを論ずる過程で改ざんがあるのは、改ざん部分がギャップである、と言ってるようなものです(ギャップがなければ、改ざんされた結果をそこに貼る必要もないし、ギャップがないのに改ざんするのはリスクが高すぎる)。

むすび

博士の学位を取得する意味とプロセス概要、やっちゃいけないこととその例をざっと書きましたが、別に新しいことは何もありません。
単にこれまで諸先輩方が実践されてきたことで、私も実践してきたことをまとめたものであり、意識することでより「後進の方々が研究のマイルストンを立てやすくなる」と考えて、ここに記しています。
これから研究される方が、実りある研究生活を送られることを、祈念しております。

*1:名乗れば誰でも研究者

*2:査読論文何編とか、そういう具体的に必要とされる成果の話